2022.05.18
【連載】世界一やさしい「鍼灸の歴史」
講座vol.5 丹波康頼のスゴすぎる偉業『医心方』
日本独自の医書を編さんした平安時代
こんにちは! 鍼灸ジャーナリストの山口智史です。
前回は「平安時代に日本独自の医学書が編さんされた」というお話をしました。
奈良時代の「とにかく中国を見習おう」という時期から脱して、平安時代には「日本の文化を融合させて、日本独自の文化を形成しよう」という段階に入っていきます。
そうした国風文化の盛り上がりが、医療情勢にも反映された結果、日本独自の医書が編さんされることになります。
前回までのおさらいです。
ポイント
・奈良時代から『大宝律令』や『養老律令』の施行によって医療制度が整備。医師と同様に「針師」「針生」「針博士」が医療制度のなかで位置づけられていた。
・平安時代には、天然痘の流行を受けて、針生は薬についても学ぶことが課せられた。
・また国風文化が盛り上がるなかで『大同類聚方』や『金蘭方』など日本独自の医書が編さんされることとなった。
「日本人はモノマネが得意」としばしばいわれます。異文化を取り入れて、自国の文化に合うかたちにアレンジすることに長けているんですね。
思想家の内田樹さんは、そんな日本人の特質を「他国との比較を通じてしか自国の目指す国家像を描けない」とし、さらにこう表現しています。
「世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びつき、弊履を棄つるがごとく伝統や故人の知恵を捨て、いっときも同一であろうとしないという、ほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たちはナショナルアイデンティティを見出した」
言い換えれば、周囲をきょろきょろしながら、優れた文化があれば取り入れようとする貪欲さが、日本人の特質ともいえそうです。
医書についても、中国の唐文化にまさに飛びついて、自分たちの使いやすいようにアレンジしたわけですね。
中国の主要な医書をすべて輸入
ただ「他国をまねる」というと、簡単に聞こえますが、そこには並々ならぬ努力がありました。
なにしろ、唐にわたって文献を持ち帰るための航海は命がけです。
『遣唐使』 (岩波新書)によると、遣唐使の帰還率は約6割。それだけ遭難が多かったわけです。
遣唐使に遭難が多かった理由として、船の構造や航海術の未熟さが挙げられがちですが、本当の原因は「航海の時期」です。
遣唐使は唐の皇帝に朝貢品を献上するために、元旦に唐の都で行われる「朝賀の儀礼」に参加しなければなりませんでした。
正月に唐の都に到着するには、遅くとも9月には出発しなければなりません。渡海に不向きな時期に船を出さざるを得なかったため、多くの遭難事故に見舞われてしまい、約4割の遣唐使が生還できなかったのです。
そんな犠牲を払いながら、唐から医書が持ち込まれたことを考えれば、学ぶほうだって必死になりますよね。
そして838年に遣唐使は廃止されることになります。
もはや、唐の文化を十分に輸入したので、危険を冒してまで唐にわたる必要はなくなりました。
文献はたっぷりありますから、あとは存分に学ぶだけです。
891年頃、藤原佐世は宇多天皇に命じられて『日本国見在書目録』を作成します。
日本最古の漢籍の分類目録で、1579部、16790巻もの書籍を収載。
そのうち、医書は166部、1309巻も収録されています。唐の主要な医書はすべて輸入されたといってよいでしょう。
そんななか、唐から伝わる医学書をことごとく読破したツワモノが現れます。『医心方』の編者、丹波康頼です。
「医王」と称された丹波康頼の出自
丹波康頼は丹波国の出身です。
丹波国の天田郡(現・京都府福知山市)、あるいは、桑田郡矢田(現・京都府亀岡市)とも言われています。
京都府亀岡市の神尾山町付近にある金輪寺には、丹波康頼を供養するために立てられたという五輪塔があります。
「医王」と称された康頼を供養しようと、遠方から訪れる人もいるとか。そのほかにも「康頼が住み、薬草を育てた」という逸話から、亀岡市の下矢田町付近には「医王谷」という地名が残っていたりします。
出自にもいくつか説がありますが、康頼は後漢の霊帝の子孫で、日本に帰化した阿智王から数えると、9代目の孫にあたるとされています。
薬学者で東京帝国大学名誉教授の丹波敬三さんや、俳優の丹波哲郎さんは、丹波康頼の子孫にあたるというから、驚きですよね。
丹波哲郎さんは心霊研究家でもあり、多くの著書を残しています。
ジャンルは違えと、康頼の探求心が引き継がれたと思うと、何だか納得できるような気もしてきます。
『医心方』に込められた「鍼灸」への思い
唐の医学書を読み漁った丹波康頼は、国風文化が盛り上がるなかで、日本独自の医学書を編さんします。それが『医心方』です。
それより先に『大同類聚方』や『金蘭方』などの日本独自の医学書が編さんされてはいるのですが、残念ながら残っておらず、中身はわかりません。
現存する最古の医学書が『医心方』ということになります。
医療・医学に精通した康頼は医博士であると同時に、優秀な針博士でもありました。
そんな康頼がまとめた『医心方』は、全部で 30 巻にもおよびます。内容は以下のようなもので、かなり網羅されていることがわかります。
【巻1】 医学総論薬学総論
【巻2】 針灸療法
【巻3】 外邪である風、風による病
【巻4】 髪、頭部、顔面部などの疾患について
【巻5】 耳、目、鼻、歯、咽喉の病気
【巻6】 胸部、腹部、腰などの疾患、五蔵六府の内蔵について
【巻7】 陰部、肛門、痔など
【巻8】 足、指などの疾患
【巻9】 咳、嘔吐などの疾患
【巻10】 積聚、癥瘕など、しこりやつかえの疾患
【巻11】 下痢の病
【巻12】 大小便の異常疾患
【巻13】 虚労、身体の疲労、衰弱の疾患
【巻14~巻 18】 急死、流行性疾患、できものなどの皮膚疾患、外傷などの雑病
【巻19、巻20】 服石という鉱物薬の服用法と副作用の対策法
【巻21 ~第24】 婦人病、産科関連の対処、治療法
【巻25】 小児科について
【巻26】保健、衛生学
【巻27 】養生学
【巻28】 性医学
【巻29、巻30】 食品の選定と鑑別
これだけのものを平安時代に編さんしてしまうとは……恐るべし、丹波康頼。
小曽戸洋先生は、第2巻に鍼灸を持ってきたことに着目。
康頼が込めた鍼灸への思いについて、次のように見解を述べています。
「全30巻のうち第1が総論であるのは当然であるが、各論の冒頭巻2が針灸篇に充てられるのは、中国の医学全書では類のないことである。しかも、巻2のみに丹波康頼自作の序文が付いており、康頼の針灸に対する思い入れの深さがわかる」
(『針灸の歴史: 悠久の東洋医術』より)
鍼灸にも精通した医師だからこそ、『医心方』はこれだけ充実した内容になったのでしょう。
「使命感を持つ」のが最大の健康法
丹波康頼は、実に数百種類にも及ぶ、中国の六朝時代、隋や唐時代の医学書から引用して、この大著を編さんしました。
実は、引用書のなかには、今はもう中身がわからない医学書もあるんですね。
康頼が編さんしたことで、そうした文献の中身も後世に活かされることになります。
研究者としてはもちろんですが、編集者としても大変意義のある仕事だといえるでしょう。
ハードワークにもかかわらず、康頼は84歳まで生きています。この時代では大変長生きしたことになります。
彫刻家のミケランジェロ(88歳)、ファッションデザイナーのココ・シャネル(87歳)、浮世絵師の葛飾北斎(88歳)らも、心身を削って働いてたにもかかわらず、長寿でした。
使命感こそが人を長生きさせる。
丹波康則の偉業からも、私はそう確信しています。
『医心方』といえば、槇佐知子先生が1993年から『医心方全訳精解』全30巻を逐次刊行し2012年に完結しました。
大変な労作であり、パピルス賞を受賞されています。
『医心方 全33冊セット』(槇佐知子訳)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480505101/
「なんだか勉強に身が入らない」「目標を見失ってしまった」……学生時代は、そんな気持ちになることもあるでしょう。また、将来に向けた漠然とした不安を抱えている人も少なくないはず。
そんなときこそ、奈良・平安時代に奮闘した針師たちをイメージしながら、1000年も前に成し遂げられた大仕事に触れてみてはいかがでしょうか。
【参考文献】
1) 槇佐知子訳『医心方 全33冊セット』(筑摩書房)
2) 小曽戸洋、天野陽介『針灸の歴史 悠久の東洋医術』(大修館書店)
3) 近藤敏喬編『宮廷公家系図集』(東京堂出版)
4) 小曽戸洋「漢方医人列伝 丹波康頼」(ラジオNIKKEI 2009 年 2 月 25 日放送)
5) 「丹波康頼ゆかりの金輪寺」(京都新聞 2007年9月26日付)
6) 東野治之『遣唐使』 (岩波新書)