2022.07.21
【連載】世界一やさしい「鍼灸の歴史」
講座vol.7 道長が反面教師になった?食文化が大きく変わった鎌倉時代
貴族社会の平安時代から武家社会の鎌倉時代へ
こんにちは! 鍼灸ジャーナリストの山口智史です。
前回は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でもおなじみの北条政子が「針の名医をいかに頼りにしていたか」について触れながら、鎌倉時代の鍼灸事情をご紹介しました。娘の大姫が病に伏せたときに、政子が何としてでも治療してもらいたいと願ったのが、「針の名医」である丹羽時長だったんですね。前回までのおさらいです。
ポイント
・奈良時代から『大宝律令』や『養老律令』の施行によって医療制度が整備。鍼灸師は医療制度のなかで位置づけられて、薬についても学ぶことが課せられていた。
・平安時代まで鍼師は主に外科治療に携わり、本格的な鍼灸治療が行われるようになったのは、鎌倉時代からのこと。
・梶原性全などの仏教の僧が医師として灸法を施していた。
鎌倉時代の始まり、それは武家社会の始まりでもあります。当然、貴族社会だった平安時代よりも、戦(いくさ)が増えるわけですよね。そうなると、人々の健康を支える食事への意識も変わっていくことになります。今回は、平安時代から鎌倉時代にかけての人々の健康観や食事観の変化と、当時の鍼灸事情についてお話していきましょう。
「1日3食」は鎌倉時代から
鎌倉時代あたりから、人々は養生に灸を用いるようになります。そのことは、吉田兼好が『徒然草』に「四十以後の人 、身に灸を加へて三里をやかざれば、上氣のことあり。必ず灸すべし」(40 歳以上の者は三里に灸をすると、のぼせを引き下げる)と書いていたことからもわかります。健康管理として灸が根づいていたんですね。
鎌倉時代の人々は、そんなふうに灸によってセルフケアを行いながら、食生活も変化させていきます。その背景として、全国各地で開墾作業が進んだことがあります。耕地が増えていくと同時に、農具の改良も行われました。田畑では牛馬が使用されるようになり、お米の生産高がどんどん増えていったんですね。
そんななか、武士の食生活も変わっていきます。古代において食事は、1日に朝と昼の2食でした。しかし、戦が増えて重労働が課せられるなかで、武士は1日に3食を食べるようになります。腹が減っては戦ができぬ、というわけです。もっとも一般の人にまで1日3回の食事が定着するには、江戸時代までかかりますが、その先駆けが鎌倉時代の武士でした。
どんなものを食べていたかといえば、武士は狩りによって鹿、猪、野うさぎなどを捕らえて食べていました。食事の回数こそ増えたものの、平安時代の公家の贅沢な食事が改められて、鎌倉時代では質素な食事が武士の間で推奨されることになります。
平安時代に藤原道長が患っていた病とは?
贅沢な食事を戒めるにあたっては、もしかしたら、伝聞レベルで一人の有名人が話題になったのではないか。そんなふうに私は想像を巡らせています。
その人物とは、藤原道長です。道長といえば、次のような歌を詠ったことで知られていますよね。
「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」
満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている――。道長は、自分の娘を天皇の后にすることで、平安時代の貴族社会で全盛期を築きました。
この歌は、道長が自身の絶頂期を誇ったものですが、実のところ、道長の体内では「欠けるものがない」どころか、大きな作用が欠如しつつありました。
それは一体何か。1016年、道長は51歳のときに藤原実資にこんなことを言っています。
「3月のころからしきりに水を飲むようになった。近頃は昼夜なく水を飲みたくなる。口が渇いて、脱力感がある。ただし、食欲は以前に変わらない」
医療従事者ならば、これを聞けば、ピンときますよね。そうです。道長は糖尿病を患っていました。道長の体内では、インスリンの作用が著しく低下していたのでしょう。40代から50代にかけて病状は悪化していきます。糖尿病による糖尿病性白内障も発症してしまったのか、道長は視力低下にも悩まされるようになります。
医師が匙を投げたときはやはり「鍼」だが……
もちろん当時は、道長の症状が糖尿病によるものだとはわかりません。道長は「これは祟りだ」と思い込みます。これまでいろんな人を蹴散らして出世してきたので、心当たりはいくらでもあったことでしょう。
そうなると、もう政治どころではありません。道長は政務から離れて、法成寺(京都市左京区)の建立に情熱を注ぎます。なんとか病を治そうと考えたのです。しかし、どれだけ祈祷を行っても、道長の症状はよくなりません。神頼みでは、インスリンは分泌されませんからね……。
そのうち下痢が激しくなり、背中に大きな腫れものができます。慌てて、医師の和気相成(わけのすげしけ)を呼びますが、こんなふうに言われて、匙を投げられてしまいます。
「腫れ物は背中から乳首に広がり、その毒気が腹に入って救いがたい」
いつの時代も医師に見放されたときには、鍼の出番です。ただ、平安時代の鍼はあくまでも外科的な治療でした。禅閣の忠明宿禰が背中の腫れ物に鍼を刺して膿を出しますが、道長は悲痛の叫びをあげて、昏睡状態に陥ってしまいます。その2日後に亡くなり、道長は61歳の生涯に幕を閉じることになります。
糖尿病になると喉が渇くため、平安時代には「飲水病」、あるいは「口渇病」などと呼ばれました。もちろん、当時の人は「飲水病」の原因に食生活があるなどいうことはわかりません。さらにいえば、藤原家には糖尿病らしい症状を持つ人が非常に多くいました。道長が糖尿病になったのは、遺伝的な要因も大きかったと考えられます。
それでも、贅沢三昧の道長が「飲みすぎ食べ過ぎ」だったのは周知の事実。また、運動不足による肥満も、その体形を観れば一目瞭然でした。
そんな道長が重い病に苦しんで命を落としたことは、もしかしたら、庶民のなかで戒めとして囁かれていたのではないでしょうか。鎌倉時代における特に武士たちの質素な食事を観ていると、「もしかして、不健康男・道長が反面教師になったのでは?」と私は想像してしまうのです。
「梅干しパワー」で鎌倉幕府は守られた?
そんなわけで、貴族社会から武家社会に移り、戦が増えると、それに耐えられるだけの体力作りが求められるようになります。武士は貴族のように、美食を楽しんでいる場合ではなかったんですね。
食事も「戦で食べやすいかどうか」が重視されます。「梅干し入りのおにぎり」が広がったのは、鎌倉時代からだったとされています。
きっかけは、1221年に起きた「承久の乱」です。
後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を打倒するべく兵を挙げると、北条政子が幕府を守るべく、御家人たちをこんなふうに叱咤激励します。
「頼朝様から受けた恩を今こそ帰すときです!」
歴史ドラマでも必ず出てくる、北条政子の大演説が行われたわけですが、その一方で、政子が兵糧として配ったのが、梅干入りのおにぎりだったと言われています。「梅干しおにぎり」パワーのおかげか、御家人たちは戦に勝利。鎌倉幕府は守られました。
その後、梅干しは室町時代、そして戦国時代にかけても、陣中メシとして重宝されることになります。なにしろ、梅干しは保存性にも優れています。疲労回復や腹痛止めのための薬としても使われていました。「史上初の戦国大名」ともいわれる北条早雲にいたっては、家臣らの家の庭にわざわざ梅の木を植えさせたくらい、梅干しは重要視されていました。
そんなふうに鎌倉時代になって戦が増えたことで、食生活が変わっていき、自身に灸を行うなど健康意識も高まるなか、室町時代の後期になると、鍼にも注目が集まってきます。
いよいよ戦国時代の名医、曲直瀬道三の登場です。
【参考文献】
1) 酒井シヅ『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)
2) 篠田達明「モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ―」(新潮新書)
3) 小曽戸洋、天野陽介『針灸の歴史 悠久の東洋医術』(吉川弘文館)
4) 西本豊弘監修『衣食住の歴史』(ポプラ社)
5) 真山知幸『偉人メシ伝』(笠間書院)
(つづく)