2022.08.22
【連載】世界一やさしい「鍼灸の歴史」
講座vol.8 鍼はイマイチで灸が主体に?名医の育成に力を入れた室町幕府
子供が生まれて「小児鍼の大家」を思う
こんにちは! 鍼灸ジャーナリストの山口智史です。
先日、第4子となる三女が生まれました!子育ては久しぶりですが、なんとか思い出しながら、やっていきたいと思います。子供たちが助けてくれるのが頼もしい……!
今はまだ首も座っていませんが、赤ちゃんのコンディションを整えるのに、小児鍼も取り入れていきたいところ。これまで、ほかの3人の子供たちも、何らかの形で小児鍼を受けていますからね。
ところで、意外と難しいのが「小児鍼」の定義です。小児を対象にした鍼治療であることはわかりますが、それだと患者の属性を示したにすぎません。昭和15年に小児鍼をこんなふうに定義した人がいます。
《小児鍼とは、強壮保健を主目的とし、兼て小児病の諸徴候、特に小児の不眠不機嫌、或は幼児の神経症状に対し、俗に「かん」或は「むし」と名けて卓効あるものとして流行せる一種の皮膚刺激の鍼法である》
おおむね臨床上の実感ともマッチする小児鍼の定義ではないでしょうか。定義したのは、医師の藤井秀二です。
藤井は医師であり、かつ、小児鍼の研究で昭和5年に医学博士をとっています。そんな名人たちについても、この連載では取り上げていくので、お楽しみに!
鎌倉時代の鍼灸のおさらい
さて、前回は鎌倉時代における人々の健康意識の変化について、お話をしました。食事を1日3食とるようになったのも、鎌倉時代からでした。前回までのおさらいです。
ポイント
・奈良時代から『大宝律令』や『養老律令』の施行によって医療制度が整備。鍼灸師は医療制度のなかで位置づけられて、薬についても学ぶことが課せられていた。
・平安時代まで鍼師は主に外科治療に携わり、本格的な鍼灸治療が行われるようになったのは、鎌倉時代からのこと。
・鎌倉時代になって戦が増えたことで、食生活が変わっていき、自身に灸を行うなど健康意識も高まっていった。梶原性全などの仏教の僧が医師として灸法を施していた。
今回は、室町時代の鍼灸事情について解説していきましょう。
室町時代末期に登場したスーパードクター
室町時代の鍼灸といえば、漢方医学の素を築いた「曲直瀬道三」の名を思い浮かべる人も多いでしょう。戦国時代における名医として知られており、「日本医学中興の祖」とも呼ばれています。
私は医道の日本社で編集長をやっていた頃に、曲直瀬道三の書籍を手がけたことがあります。本の名は『脈論口訣』で、訳を引き受けてもらったのは、篠原孝市先生です。まさに時代を超える名著を、曲直瀬道三は残していたといえるでしょう。
ですが、曲直瀬道山が活躍するのは、室町末期から安土桃山時代のこと。そこに至るまでの室町時代における鍼灸は、どんな状況だったのでしょうか。
幕府の後押しで数々の専門医が誕生
平安時代から鎌倉時代に入ると、僧のお医者さん、つまり、僧医が活躍するようになった……ということは、すでにお話ししましたね。戦乱の世を迎えて、世相が乱れたことで、宗教的な救いが求められたというわけです。
それが室町時代になると、僧医だけではなく、眼科、金創、産科などを専門とする医師が誕生します。その背景には、室町幕府が民間から広く良医を選んで、幕府の医師に任命したことがあります。
このとき幕府に選ばれた医師は、朝廷の官医以上の待遇を与えられました。そうなれば、当然、医師を目指す人が増えますよね。幕府の好待遇によって、医師の層が厚くなったのが、室町時代の特徴だといえます。
明から銅人形を持ち帰った竹田昌慶
そんな室町時代における名医とされた一人が、竹田昌慶(たけだ・しょうけい)です。もともとは武家の出身でしたが、儒学と医学を学んで、さらに仏門まで入ったうえに、1369年に中国の明にわたりました。
昌慶は明で実に10年にわたり、金翁道士のもとで医術の修行を積み、秘儀を身につけたといわれています。なんだかすごそうですよね……。昌慶は1378年に多くの医書を携えて帰国。3代将軍の足利義満に仕えるなど、重宝されることになります。
そんなふうに昌慶などの留学生によって、明の医学が日本にもたらされるわけですが、昌慶が明から持ち帰ったのは、医書だけではありませんでした。経絡や経穴が描かれた銅人形も持ち帰ってきています。
江戸の初期には、紀州藩の藩医の岩田道雪が日本初の人体模型を作ります。そのベースとなったのが、この昌慶が持ち帰った銅人形でした。昌慶は、鍼灸教育において大きな功績を残したといえるでしょう。
鍼よりも灸が主体だった室町時代
そうして室町幕府の働きかけによって、各分野の良医が抜擢され、明の留学経験者が医学界を先導するなかで、さらにスペインやポルトガルとの南蛮貿易によって、南蛮医学も入ってくるようになります。
そんななか、室町時代における鍼灸の状況はというと、鍼については目立った動きがなく、やや低調気味に……。どちらかというと、灸が主に用いられるようになるんですね。
室町時代の公家、中原康富が書いた『康富記』という日記にも、灸治療について、次のような記述があります。
「灸治療を受けにきた幕府の奉行人、飯尾肥前入道永祥(為種 )と、その叔父にあたる常楽坊、同朋衆富阿弥らとともに酒を飲み、雑談しながら時を過した」
このとき、幕府の奉行人が灸治療を受けた場所は寺で、灸治療を行ったのは尼僧です。灸によるセルフケアが日常的に行われていたことがわかりますね。
一方の鍼については、1442年に称光天皇ができものに悩まされて、鍼治療を勧められた……という逸話が、『康富記』では紹介されています。鎌倉時代に引き続き、できものに対する外科治療として鍼が活用されていたようですが、康富はこんなふうに嘆いているのです。
「宮廷の医師の中に、このような時、役に立つ医師がいないのは医道の零落である」
つまり、宮廷医はできものへの鍼治療を行う技術がなかったというわけです。そのために鍼博士が宮廷には置かれているとはいえ、ちょっとやっぱり鍼の技術が軽視されている感がありますよね。
そんな衰退期に入った鍼でしたが、少しずつまた盛り返していきます。「これではいけない!」という問題意識があったのか、『煙蘿子針灸法』(えんらくしんきゅうほう)という鍼灸の専門書が1530年に発刊されたりもしています。
『煙蘿子針灸法』の著者は樵青斎洞丹という人で、人物の詳細はよくわかっていません。ただ、鍼灸の総論と治病の各論を記した本の構成からも、鍼はもっといろんな場面で活用されるべきだという、著者の強い意思を私は感じます。
たとえ、一時的に低調することがあっても「技術を残そう!」という人がいる限り、鍼は受け継がれていくことになります。次号も引き続き、室町時代の鍼灸について解説していきたいと思います。
それでは、また来月!
【参考文献】
1) 長野 仁、髙岡裕「小児鍼の起源について ―小児鍼師の誕生とその歴史的背景―」日本医史学雑誌、2010年(第 56 巻第 3 号).
2) 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典14』(吉川弘文館).
3)吉田和裕「日本における鍼灸の歴史 ―室町から江戸期にかけての受容と発展について―」 社会鍼灸学研究.2010年 (通巻 5 号).
4) 高橋康夫「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態 ―室町時代京都の都市再開発に関する考察」日本建築学会論文報告集. 1978年(第 263号).
5)小曽戸洋、天野陽介『針灸の歴史 悠久の東洋医術』(大修館書店).
(つづく)