2023.05.25
【連載】世界一やさしい「鍼灸の歴史」
講座vol.14 江戸時代に行われた日本独自の鍼術とは?
こんにちは! 鍼灸ジャーナリストの山口智史です。
少し間が空いてしまいましたが、鍼灸関連の執筆や編集にやや追われがちでした。
どうしても3月、4月は卒業や入学のシーズンなので、カタログを配布するなど、メーカーの動きが盛んになる時期となります。
かつては月刊「医道の日本」の2月号を専門学校の卒業生に、3月号を入学生に配布したことを思い出します(途中からいずれも廃止になりましたが……)。
4月から入学や進学といった節目を迎えた学生のみなさんは、どんな時期をお過ごしでしょうか。
新しい環境にも慣れて来て「プラスアルファで何かしたい!」という人もいるかもしれません。ぜひ「鍼灸師の学校NEXT」を活用して、新たな学びの機会につなげてみてくださいね。
本講座では、引き続き、鍼灸の歴史についてお話していきたいと思います。
前回のまでのおさらい
さて、前回までは、奈良・飛鳥時代から室町時代までの鍼灸の歴史について解説し、さらに江戸時代の灸による養生についてご紹介しました。今回は、江戸時代に生まれた鍼灸術について解説します。ポイントをおさらいしましょう。
ポイント
・鍼師は奈良時代から国の医療制度のなかで位置づけられて、主に外科治療に携わっていた。鎌倉時代から本格的な鍼灸治療が行われ始めるが、鍼よりも灸のほうが盛んで、仏教の僧が医師として灸法を施していた。
・室町時代になると、眼科、金創、産科などの専門医師が誕生。明の医学や南蛮医学も日本に入ってきて、鍼はやや低調気味となる。
・そんななか、名医の曲直瀬道三が活躍。『察証弁治』という医療システムを創り上げて「日本医学中興の祖」となる。経絡治療のルーツ『脈論口訣』も残した。
・江戸時代には『日用灸法』が発刊されるなど、セルフケアに灸が広く活用された。
白衣を着た医師が行う「打鍼術」
江戸時代、人々は『日用灸法』などを参考にしながら、どんなときに灸をすべきかを考えて、セルフケアに取り入れていました。そのほか、あん摩や薬売りが配る常備薬で養生を行っていたんですね。医療が発達していない分、予防医学に対する意識は、今より高かったのではないでしょうか。
それだけ日々気をつけていても、病を患うことはもちろんあります。そんなときこそ、鍼医や外科医、内科医などの医師の出番でした。この頃、鍼の鎮痛効果は、接骨の補助手段としても活用されていたことがわかっています。
それでもなお、回復のきざしがなければ、祈祷師に頼ったといわれています。当時は祈祷師も、終末期医療の担い手の一人だったといってよいでしょう。
江戸時代における鍼治療は、どんなものだったのでしょうか。鍼治療の風景を描いた職人絵「鍼師」は江戸時代初期のものとされており、そこでは「打鍼」が行われています。その絵は、森ノ宮医療大学鍼灸情報センターの「はりきゅうWebミュージアム」でも観ることができます。
「打鍼術」を普及させた御薗意斉
打鍼術は、鍼医の御薗夢分斎が夢分流を起こし、弟子の御薗意斉が普及させたと言われています。
打鍼については、以前の「講座vol.9 室町時代の衰退期に生まれた鍼灸書『煙蘿子針灸法』と『管蠡草灸診抄』」でも書きましたが、もう少し詳しく説明しましょう。
ちょうど織田信長が天下統一に動いていた時期に、意斎は上洛。そして細川忠興に気に入られて、楠の木槌をプレゼントされます。
その後、夢分と引き合わされて、秘伝を授けられたとか。京の地で、意斎の鍼治療は大変人気を博したようです。
大宝律令以後、「鍼博士」が朝廷で置かれたことも、すでに講義で話しました。意斎は正親町天皇や後陽成天皇の御典医となり、鍼博士に任ぜられています。のちに第2代将軍となる徳川秀忠も、意斎が治療したと伝えられています。
打鍼術の書として最も有名なのは、夢分流の書として知られる『鍼道秘訣集』です。打鍼や腹診を行う目安となる腹診の図とともに、わかりやすく意斎流の腹診について説明されています。
引用元:『鍼道秘訣集』(京都大学附属図書館所蔵)
戦国大名も今を活躍する著名人も鍼を受けている!
それにしても、御薗意斉や曲直瀬道山がまさにそうですが、鍼の歴史を辿れば、日本史に出て来る著名な人物と自然と結びつきます。
実はこれは現代でもいえることだったりするんですよね。
休刊となった月刊「医道の日本」では「私と鍼灸」というコーナーがありました。楽天の三木谷社長や東京都知事の小池百合子さん、タレントの眞鍋かをりさん、ベッキーさんなどさまざまな著名人に「鍼愛」を語ってもらいました。
その一方で、実は依頼を断られることも少なくありませんでした。一つはスポンサーの関係ですね。製薬系のCMに出ていたりすると、実際に鍼を受けていても、東洋医学のイメージは打ち出しにくい、そんなことがありました。
そのほかの理由でも、「鍼を受けている」ことを公にしていない政財界や芸能界、スポーツ界の著名人は、実はかなりいたりします。
つまり、歴史を紐解くと「こんな偉人も鍼を!」と驚くことがあるのですが、実はそれに近い状況は今もあるのではないか……ということです。そう考えると、ますます鍼の良さを一部の人だけではなく、もっと多くの人に知ってほしいと思います。
これは「鍼灸師の学校NEXT」主催の川畑充弘さんとも、よく歯がゆさを語っているところではあるのですが……。
さて、脱線しているようでいて、江戸時代の話へと戻っていきます。これから鍼を普及啓発していくにあたって、やはり「日本ならではの鍼の特徴」を打ち出すことが重要となります。
それこそが、「打鍼法」とともに日本独自で創案された「管鍼法」であり、江戸時代に誕生したといわれています。
中国古来の「撚鍼法」に日本独自の鍼術が加わる
木槌で鍼を打ちこむ「打鍼法」と、管を使って鍼を刺入する「管鍼法」という、似ても似つかない鍼法がなぜ日本で誕生することになったのか。ともに時代のニーズによって生まれたのではないでしょうか。
そもそも、日本における鍼術の方法としては、中国伝来の「撚鍼法」(ねんしんほう)が古くから行われてきました。片方の手で鍼を刺す部位を押さえながら、もう片方の手で鍼を持って刺入していく。そんな押し手と刺し手を用いた方法ですね。
その「撚鍼法」に加えて、日本独自の鍼術が行われることになります。その一つが前述した「打鍼術」(打鍼法)です。
木槌で鍼を打つわけですから、当然、刺激量は大きくなります。室町時代と戦国時代に盛んに行われたのは、戦乱の世でそれだけ身体も疲弊し、強刺激を求めたのかもしれません。打鍼術は時代のニーズをつかんで広まったと言えそうです。
そうなると勘の鋭い人は、江戸時代になって、どんな鍼がトレンドになったのか。おわかりになったかと思います。徳川家康は江戸幕府を開くと、戦国の世が再び訪れないように、さまざまな手を打ちます。大名の力をそぐ「参勤交代」がその一つですね。
そんな家康らの努力によって、いよいよ泰平の世の中がやってきます。すると、打鍼術よりも細やかな刺激が好まれるようになります。それが「管鍼法」と呼ばれる方法……ということになります。
中国古来の「撚鍼法」に「打鍼法」、そして「管鍼法」の3つを日本の鍼術における「三大主流」と呼ぶこともあります。押さえておきましょう。
管鍼法は延宝4年(1676年)には、広く行われていたようです。将軍でいえば、4代将軍 の家綱による治世が行われていた頃ですね。
そんな管鍼法を考案したのは、杉山和一です。はたしてどんな人物だったのでしょうか。次回、解説していきたいと思います。
それでは、またお会いしましょう!
(つづく)
【参考文献】
1)吉田和裕「日本における鍼灸の歴史 ―室町から江戸期にかけての受容と発展について―」 社会鍼灸学研究、2010年 (通巻 5 号)
2)小曽戸洋、天野陽介『針灸の歴史 悠久の東洋医術』(大修館書店)
3)『鍼道秘訣集』(京都大学附属図書館所蔵)
4) 宿野孝、長野仁、篠原昭二「意斎流腹診術からの検討と一考察」(1994年、明治鍼灸医学 1994 ; 15 : 15-30.