2022.02.11
【連載】世界一やさしい「鍼灸の歴史」
講座vol.2 奈良時代の国家試験
遣唐使の時代にも鍼灸の「国家試験」があった!
こんにちは! 鍼灸ジャーナリストの山口智史です。
今年も国家試験の時期が近づいてきましたね。はり師・きゅう師は2022年(令和4年)2月27日が試験日です。
その前日の26日にはあん摩マッサージ指圧師、そして3月6日には柔道整復師の国家試験が行われます。
コロナウイルス感染症の心配がまだまだありますが、受験生のみなさんが、ベストコンディションで力を出し切れるようにお祈りしております。
それにしても、試験勉強というのはいつの時代も大変なものです。
遣唐使の時代から「医生」や「鍼生」になるには、ハードルの高い面接試験があったことはご存じでしょうか。
今回はそんな話をしてみたいと思います。
国の医療制度の中心に針師がいた
前回の連載(第1回)では「日本はいつから、鍼灸が行われているのか」というお話をしました。おさらいしましょう。
ポイント
・仏典や医法書については、古墳時代後期から高句麗から持ち帰られており、その頃から中国医学に触れている可能性が高い。
・7世紀初頭には、遣隋使や遣唐使を通じて、中国との国交が本格化。薬師恵日(くすし・えにち)らにより、医薬と鍼灸の教科書も取り入れられる。
・701年、藤原不比等らによって『大宝律令』が完成し、医療制度が整備。「医師・医生」のほか「鍼博士」「鍼師」「鍼生」も定められた。
・「医疾令」では、「針生七年成」とあり、鍼は7年の修行が必要だとされた。
職制が定まれば、教育が必要になりますよね。整備された法体系に基づいた国家制度のことを「律令制」と呼びます。
律令制は645年の「大化の改新」によって始まり、701年の『大宝律令』によって完成に至ります。
さらに718年には『養老律令』が施行されることになります。
医療制度は「医疾令」という法令によって定められました。
そのなかで、医療者を養成しながら臨床を行う機関として制定されたのが「典薬寮(てんやくりょう)」です。
典薬寮では、薬園の管理も行われました。
典薬寮のほかに、天皇への医療を行う「内薬司」(ないやくし)という機関がもともとはありましたが、896年に併合することになります。
朝廷の医療を一手に引き受けた「典薬寮」。
構成されたメンバーをみると、医師10人、医博士1人、医生40人、針師5人、針博士1人、針生20人、按摩師2人、按摩博士1人、按摩生10人、呪禁師2人、呪禁博士1人、呪禁生6人、薬園師2人、薬園生6人などがいます。
人数から針師がいかに重視されていたかがわかりますよね。
ちなみに「針師」とは実際に治療にあたる医官のことで、「針生」は学生です。
そして針師の中でも優秀な人が「針博士」に選ばれました。
奈良時代の鍼灸学生も同じ勉強を?
医学教育は、中央で行われる「大学」と地方で行われる「国学」に分かれました。
地方でも、中央の制度に準じた組織が形成され、各地で医学教育がなされることになります。
そして育成した官医を諸国に配置する……そんな医療の国有化を目指したわけです。
さて、この頃の医療制度は、何もかも唐をお手本にしていますから、教科書も唐令に沿ったものとなります。
医生や針生は何を読んで学んだのでしょうか。
当時の雰囲気を味わってもらうために「医疾令」の原文をまずは見てみましょう。
「医針(いしむ)の生は、 各経を分ちて業を受けよ。医生は、甲乙、脈経、草習へ。兼ねて小品、集験等の方習へ。針生は、素問、黄帝針経、明堂、脈決習へ。兼ねて流注、偃側等の図、赤烏神針等の経習へ」(「医疾令第二十四」)
読み解いていきましょう。
医学生の教科書として『甲乙経』『脈経』『本草』『小品方』『集験方』を勉強するように、と書かれています。
一方の針生、つまり針の学生さんは『素問』『黄帝針経』『明堂』『脈訣』『流注図』『偃側図』『赤烏神針等』を習うようにと記されていますね。
『甲乙経』『脈経』『素問』『黄帝針経』『明堂』『脈訣』は書名で、今の鍼灸師たちが学んでいるものでもあります。
奈良時代の医生や針生たちも、一生懸命これらのテキストを教科書として読んで学んでいました。
これがまさに伝統医学のすごいところだと思います。
綿々と引き継がれているものがあるわけですよね。
『黄帝針経』って何?
この連載では、古典についても少しずつ、説明していければと思います。
針生たちが使った教科書のうちの『黄帝針経』という書名に「『黄帝内経』じゃないの?」と引っかかった人もいるかもしれません。
中医学の基礎理論を確立した『黄帝内経』は、『神農本草経』や『傷寒雑病論』と並ぶ、中国医学における三大古典の一つで、最も古い中国医学古典です。
『黄帝内経』の名がつくのは『素問』『霊枢』『太素』『明堂』の4つ。
そのうちの『霊枢』がかつては「針経」と呼ばれていたため、『黄帝針経』となっているんですね。
現在でも、鍼灸臨床を行ううえで大切な古典とされているのが、『素問』と『霊枢』です。
『素問』では主に生理、病理、衛生が論じられており、一方の『霊枢』では診断、治療、針灸術の具体的な方法を解かれており、より実践的な内容になっています。
「針灸師たるものは、どこへ出かけるにも針と艾と『素問』『霊枢』は携えていろ」
日本内経医学会の元会長・島田隆司氏による言葉です。
鍼灸師にとって、『素問』『霊枢』はそれくらい重要な古典として長きにわたって読まれているということです。
当時の針生たちは、それこそ『素問』と『霊枢』を教科書として、どこへ出かけるにも持ち歩いていたのかもしれませんね。
「12問中8問以上正解」が合格条件だった
医生や針生になるには、国家試験を受けて合格しなければなりませんでした。
「学生として学ぶための試験」ということになります。
当時は「任官試験」と呼ばれて、ペーパーではなく面接、つまり問答形式です。
出題は上記の書物からで12題出題されます。
8題以上正解すれば、合格です。出題範囲の広さを考えると、結構ハードルが高いですよね。
小曽戸洋氏(北里大学東洋医学総合研究所医史学研究部部長)は「今日この考試に合格できる針灸学校の学生はそう多くあるまい」と所感を綴っていますが、私も同感です。
学生として学ぶために国家試験があったのですから、大変ですよね。
「先輩に聞いたら、ここが出題されやすいらしいぞ!」なんていう情報交換が、奈良時代にもあったのかもしれません。
ちなみに、もし、全問正解したならば、医生の場合は従八位下、針生はその一等下に叙されたそうです。
優秀な学生には、しかるべき地位を与えていたことがわかります。
自国の伝統医療にもっと国のバックアップを
連載第2回となる今回は、奈良時代の鍼灸学生が挑戦していた勉強や試験について、お送りしました。
「昔はこんなに古典を読み込んでいたんだから、今の学生さんたちもがんばらなきゃ!」なんて言うつもりはありません。
なにしろ当時とは違い、今は現代医学的な解剖や生理も学ばなければなりません。
それこそ、奈良時代の鍼灸学生が今の国家試験を受けたら、ちんぷんかんぷんでしょう(そりゃそうだ)。
私が言いたいのは、鍼灸師はかつてこれほど国の医療制度の根幹に組み込まれていたということです。
もちろん、経験医学しかない時代ですから、当たり前と言えば当たり前なのですが、中国や韓国は現在でも自国の伝統医療を大切な資源ととらえて、国家全体でバックアップしています。
日本との違いは、鍼灸に関する国際会議を一度でも取材すれば、嫌というほど実感することです。
膨大な医療費や医師不足が課題となる今、鍼灸師を中心とした医師以外の医療職の活躍を、国はもっとバックアップするべきではないでしょうか。
伝統医学として鍼灸がこれまで果たしてきた役割を、厚労省だけではなく、国の役人の方々にはみんなもっと知ってほしいと思います。
新春からまたフレッシュな鍼灸師の方々が世に出て、活躍することになります。
鍼灸の歴史を踏まえたうえで、新たなジャンルに挑戦してほしいですね。
様々な可能性を秘めた、非常にユニークな医療職だと私は思っています。
では、また来月、お会いしましょう。
【参考文献】
1) 奈良県薬業史編さん審議会編『奈良県薬業史』(奈良県薬業連合会)
2) 黒板勝美編『新訂増補 国史大系 第22 巻 律令義解』(吉川弘文館)
3) 小曽戸洋「特別講演Ⅰ 日中医薬文化交流史 ―博多を窓口として」日本医史学雑誌 1997; 43(3).
4) 小曽戸洋、天野陽介『針灸の歴史: 悠久の東洋医術』(大修館書店)